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二条半妙法寺は、日蓮聖人から帝都布教の遺命を受け京都に大本山妙顕寺を開いた龍華院日像上人の直弟子、微妙坊日祐上人を開山とする泉州最古の日蓮宗寺院の1つです

 

 
日像上人は西日本中に『法華経』普及を行った数多くの弟子の中でも特に秀でた4人を直弟子と定め、そのうちの1人、日祐上人は師僧日像上人自刻の「帝釈天像」とともに 京都と繋がりの深かった堺布教 を託され、宗祖日蓮聖人による立教改宗( 1253 年(建長5年)4月28日)から90年後、日像上人による妙顕寺建立( 1321 年(元亨元年)から22年後、当山妙法寺を 1343 年(興国4年)年4月28日(立教改宗のご聖日)に開創 、同時期、別の弟子の1人、大覚妙実上人(妙顕寺第二世、後の大覚大僧正)は、和泉国に妙泉寺(和泉市、 1341 年)と妙光寺(泉佐野市、 1358 年)を開創しました。
 開創当時の妙法寺境内には、報恩坊・正善坊・慧龍坊・本行坊・久遠坊・法泉坊の6つの塔頭支院(本寺に付属する小寺院)が置かれ、 1772 年(安永元年)に一山一寺制とされるまで 400年以上の長きに亘り六坊輪番制 で住職が務められていました。その後も泉州での『法華経』普及の一大拠点として、最盛期には上記6つの塔頭支院が本堂を守護し、大本山妙顕寺の祖師堂を移築した本堂・刹堂を移築した祖師堂・刹堂・帝釈天堂・三光堂・三十番神堂・稲荷堂・鐘楼門・番所等の諸堂が配置される大きなお寺で、 堺の町衆をはじめとする泉州地域の人々から篤い帰依 を受けていました。
 天文年間( 1532 1555 年)、檀徒であった革屋道賀一族・石津屋宗栄一門・京屋道寿・ 北向道陳(千利休最初の師、茶匠武野紹鴎の友、名医薬師院圓璡(竹田定信)の舅) 等により再建されるも、大坂夏の陣「元和の兵火」( 1615 年)で焼失。現在の地に復興したのは檀徒の 豪商茶屋四郎次郎(徳川家康の側近) の助力と、 『法華経』信仰に篤く「法華経の行者」として生きた地割奉行風間六右衛門尉 (堺市内旧跡の地に「風間寺」が建ち、墓は「月蔵寺」にあり菩提を弔っている)の計らいで、旧南宗寺の寺地を得てのことでした。
  1536 年(天文5年)、 天文法難(京都での延暦寺暴徒による焼き討ち騒乱) の際には、前述の 大本山妙顕寺 (当時、二條城傍の二條西洞院に立地) が無数の末寺の中から当寺を頼り三代に亘って身を寄せた ことから、 以来今日に至るまで「二條半」の愛称 で親しまれるようになりました。また、この時期に 檀徒として篤く『法華経』を信仰した北向道陳( 1504 1562 年)が『法華経』の普及・大本山妙顕寺の復興・菩提寺妙法寺の発展興隆を願い境内に二畳半の茶室を創案、建立 しました(現在は焼失)。
 境内には北向道陳の墓碑と愛用していた手水鉢が今なお伝わり、道陳の祥月命日にあたる毎年1月18日には、脈々と『法華経』を奉持する道陳の後裔竹田家の方々や、茶道に親しむ多くの地域の人々が集まり、「道陳忌茶会」が営まれています。また曽呂利新左衛門(豊臣秀吉の側近、落語家の始祖ともいわれる)の350年忌碑があります。
 
 

堺市指定有形文化財(絵第1号)『紺紙金銀泥 法華経宝塔曼荼羅図』 妙法寺蔵
法華経宝塔曼荼羅とは、正面に法華経の経文一字一字を連ねた宝塔を描き、その周囲に経典の大要を絵画で描く、経絵の手法を用いた特殊な曼荼羅です。 
仏教で善行と尊ばれる「造塔(塔を建てて供養すること。塔婆供養もこのひとつ。)」「写経(経文を書写すること。)」「経解説(仏法を他の人に説き伝えること。)」の三つを兼ねて行い、その功徳が得られることを願って作られました。
 当山の曼荼羅図は、題辞(経絵を説明するための語句)や経絵の配置等から鎌倉時代初期の作品と推測されています。人物の表情は可憐で穏やかであり、各場面とも軽妙な運筆で、藤原初期から鎌倉初期の経絵に共通する洗練された貴族文化の感性が表現されています。
 裏書は、寛永十八年(一六四一年)九月に、京都立本寺日遙上人(当山塔頭の報恩坊から立本寺十九世に晋山)が著し、本曼荼羅図が聖徳太子の御筆によるものと記しています。